あとがき                                  p184~185

 

 死に直面した方々の中には、色々な方がおられるようです。それはその原因や程度にもよるでしょうが、死を非常に深刻(しんこく)に捉(とら)える方と、あまり深刻に考えないで生きられる方がおられるようです。案外早く生きることを諦(あきら)めることができて、そんなに生への執着(しゅうちゃく)がない方もおられるようです。この生への執着心にしても、死生観にしても人それぞれの感があります。

 なぜそんなに死を怖(こわ)がったり、恐れたりするの、人間なんて死ぬときは死ぬものよ……なんて平然と言いきる方がおられます。不安なのに強気で表面だけを、つくろっている場合もあるでしょうが、実際に死のことが、あまり気にならない方もおられるようです。特別な修行(しゅぎょう)を積んだとか、悟(さと)りを開いたとか、信仰心があるからとかそういうものではないようです。長年修行を積んだ偉いお坊さんが、がんの告知をされて、びっくり仰天(ぎょうてん)されたという話を聞いたことがあります。

 ただ多くの死に直面した方々は、もっともっと弱いし不安だらけで、死に打ちのめされ、死が怖くて怖くてしょうがなくて、どうやって死を受け入れたら良いのか、死の淵(ふち)を彷徨(さまよ)っておられるのではないでしょうか。

 日本人はもともとの国民性によるのか、武士道などの歴史が原因なのか分かりませんが、死や死の不安などを口にするのは、臆病(おくびょう)者で弱虫のイメージがあるのかも知れません。

 しかし心を開いて苦しさを声に出さないと、辛(つら)くて辛くてしょうがないのではないでしょうか。五郎の方法でメモ帳に書きなぐるのも一つの方法ですが、もっともっと大声を出して叫(さけ)んだらいかがでしょうか。

 死に直面した方々がもっともっと素直に、誰はばかることなく、いつでもどこでも、弱さを曝(さら)け出し『生きたい、生きたい、死にたくない、死にたくない……』などと、日常生活の中で共に叫び合えるような場所があったら良いなあと願っています。

 また「いじめ」に直面している方々のためには、一日も早く『命の叫び(P104参照)』ができる環境を、学校や家庭などに整える必要があろうかと思います。

 死は、誰にも平等に何時(いつ)かは必ず訪れます。そして最終的には、その死を自分一人で受け止め、自分一人で死んで行かねばなりません。

 ですから弱気にならずに、死から逃げずに死に真正面(ましょうめん)から立ち向かってください。重く閉じられていたドアが開かれ、必ず皆さんの前に新しい世界が開かれることを確信しております。本書がその手助けになれたら幸いです。

                      二〇〇六年  秋      内田 誠