はじめに                                   p4~5

 

 『あと半年の命です』とか『がんです』と告げられたら、あなたはどうしますか。

 死の受け入れは各人、各様(かくよう)、信仰(しんこう)、思想(しそう)、環境、年令や健康状態にもよるでしょうし、その方法や形式(けいしき)は千差万別(せんさばんべつ)でしょう。人が死に直面したとき、どのように悩み苦しみ、やがて死を受け入れることになるのでしょうか。

 

 信仰により、来世(らいせ)や輪廻転生(りんねてんしょう)などが確信できる人には、死の恐怖(きょうふ)は少ないかもしれませんし、あるいは存在(そんざい)しないのかも知れません。事故などによる突然死なら、死の恐怖を感じる間(ま)がないかも知れません。死の恐怖は病気などにより、自分の生(せい)に限りがあることを自覚したときに突然襲(おそ)いかかってきます。死によって自分の肉体は滅(ほろ)び、最愛の家族や友人たちと別れなければなりません。

 その恐怖や絶望(ぜつぼう)はいかばかりか、やはり死に直面しなければ分からないでしよう。その恐怖はきっと年令が若い人ほど強烈(きょうれつ)に襲いかかってくるはずです。なぜなら人生体験も少なく、将来の夢や希望も否定(ひてい)され、限られた時間でしか生をまっとうできないからです。

 

 本書の第一章は少年五郎がある環境のもと、十二歳の頃から死の恐怖を強く感じ始め、青春のエネルギーのほとんどを「死の恐怖からの脱出(だっしゅつ)」に打ち込み、二十二歳の時には、いついかなる時に死に直面しても、『よし、これでよし』という心境(しんきょう)で死を迎えられる『瞬生(しゅんせい)五十年』というある思想(考え方)に到達(とうたつ)するまでの、不安と恐怖の記録です。

 この記録と第二〜第五章の考察・こうさつ(研究)が、十代〜二十代の若くして病(やまい)の床につき、死の恐怖に直面している方々、三十代〜四十代の働き盛りの方々や年配の方々の中で、がんなどで死に直面している人たちに、何らかの心の拠り所(よりどころ)となれば幸いです。また最近、インターネット利用の集団自殺や、いじめや青少年の死傷(ししょう)事件のニュースをよく耳にします。死の問題に無関心(むかんしん)であったり、逃げたり、避(さ)けたり、放置した結果とも考えられます。死の問題と直接向き合うことも必要かと考えますが、その際のご参考になれば幸いです。

 

 なお本書の第一章は、少年五郎の心の軌跡(きせき)……死の恐怖からの脱出(だっしゅつ)です。実は、五郎の心の軌跡の到達(とうたつ)点が、ハイデガーの『存在と時間』の中の『死』の論議(ろんぎ)のある点で、奇妙(きみょう)に一致していました。少年五郎は後に哲学を学んだ際、この『存在と時間』のある内容に目が釘(くぎ)づけになりました。その後、『存在と時間』の中の「死」の問題と、五郎自身の死の問題との関連(かんれん)などの考察(研究)を続けました。

 第二章は死の不安とその解消(かいしょう)、第三章は哲学史上の死・実存(じつぞん)・存在の問題、第四章はハイデガーの『存在と時間』とその現代的意味、第五章では、『死生学(しせいがく)と死生観(しせいかん)の確立』を願って(『瞬生五十年』による死の不安の解消含む)が述べてあります。

 

 ※第四章のP135〜P146は、本書の死の問題と密接(みっせつ)な関係がある、難解(なんかい)な哲学と言われているハイデガーの『存在と時間』の要点です。漢字は、中学生以上の読者の方々が読み易(やす)いように心がけました。どうか本書の中の分かりやすく、興味のあるところからご覧になってください。どこから読まれても良いようになっています。

 ※なお本書では、死生観や哲学史上の論点(霊魂・れいこんの不滅など)を除いて、一般的な霊や死後の問題については、哲学の範囲(はんい)を逸脱(いつだつ)しますので論じておりません。

(実際は、大部分の漢字に「かな」がふってあります。)